

(1997年7月5日付)

私たちの「人権と報道・連絡会」は十二年前に発足し、犯罪・事件報道における人権・プライバシー侵害をなくすための運動を続けてきた。情報化の時代といわれ、マスコミから発信される情報量が巨大になり、従来のように事件が起きてから取材して記事にするのではなく、マスコミが事件を作りだし、実名で、あること・ないことを暴露し、断罪し、その後、警察が捜査を始めるという事例が出てきた。
その典型が「ロス疑惑事件」である。希代の「疑惑人」と呼ばれた三浦和義さんは、マスコミ先導型冤罪(えんざい)の犠牲者となった。三浦さんが冤罪だというと「まさか」と言う人が多いが、それはマスコミの影響力なのである。
私たちは弁護団とロサンゼルスの現場を調査し裁判記録を分析して、三浦さんの無実を確信している。冷静にみれば、米国の銃社会で起きた不幸な強盗殺人事件の一つにすぎない。最初に「疑惑」を投げかけたのは、『週刊文春』だった。テレビのワイドショーが大騒ぎし、一般新聞も悪のりして誤報をたれ流した。
私たちの運動は、報道被害をなくすことだが、結局は報道する人の立場と理念を問いただすことになっていく。何のため、誰のために報道するのか、報道の結果はどうなるのか……である。興味本位でセンセーショナルな報道は、事件当事者の人格を断定的に描き、特定個人をバッシングするスタイルで本当に大切な背景を忘れさせ、誤報を生み出し、捜査を誤らせ、裁判官や証人に予断を与えてしまう。結局その国の「法」のあり方をねじ曲げてしまうのだ。
今年三月に起きた東京・渋谷の殺人事件の女性被害者に関する暴露的報道について、朝日・毎日新聞は検証記事を出したが、もっぱら週刊誌が酷(ひど)すぎるという論調だ。ほんらい、産経・東京新聞をはじめ一般紙がプライバシーに大きく踏み込んだ記事を出し、週刊朝日・週刊読売がリードしていたことこそ批判されるべきではないか。
最近の傾向として、新聞社系週刊誌の出版社系週刊誌化がある。『週刊朝日』も『アエラ』も『週刊新潮』に追いつこうとしているのではないかと思えるような記事や編集傾向が目につく。そして、多くの週刊誌記事が、新聞社会部記者のコメントを材料に作られている。新聞記者は、自分の新聞に書かないことを週刊誌に喋(しゃべ)っていることになる。もちつもたれつの役割分担が出来ているのだ。
さらに、新聞は使わない煽情(せんじょう)的・差別的な言葉による週刊誌の大見出しが、全国紙の記事下広告にでかでかと印刷され、電車の中吊(なかづり)広告で多くの人の目に入ってしまう。新聞は、自社の悪口を書いた週刊誌記事の広告を拒否することはあるが、毎号話題の人がバッシングされている広告は平気で掲載する。神戸の小学生殺害事件で逮捕された中学生の顔写真をめぐり『週刊新潮』の広告は拒否した新聞も、『FOCUS』の広告は掲載した。遅すぎるのではないか。
一方、NHK1CHの定時ニュースはほとんど発表ジャーナリズムだ。まず首相の動き、どこからもクレームのつかない玉虫色の言葉で「今後の対応が問われます」と解説する。続いて地検特捜部や警察の発表もの(リークを含む)が並ぶ。全国紙にもこの傾向が伝染しているように思えてならない。一方で発表ジャーナリズム化が進み、他方でイエロー・ジャーナリズム化も進む――メディアの「悪貨が良貨を駆逐する」現象が深まっている。
最近は、マルチメディアや多チャンネルなどハード先行型の掛け声が盛んで、経済波及効果何兆円などの計算も行われている。将来は何百チャンネルのテレビが家庭に入り込むと言うが、番組内容をどうするかの論議はお粗末すぎる。これ以上、情報の量と速さが要求されたら、早くて便利な情報が氾濫し、複雑なものや深いもの、遅いものは敬遠されるだろう。情報のパターン化である。
殺人事件など起こす者をマスコミは「殺人鬼」と断定して叩く。そうでなければ、異端者を完全に無視することで健全な社会を装うことになっていく。だからこそ、殺人者がみずからを「鬼」と名乗ってマスコミを利用しようとするのだ。犯人叩きの前に、それを生み出した社会の病理をみるべきである。
ほんらいジャーナリズムはその国の文化だと思う。量ではなく質をこそ問題にしないと、いよいよ救い難いところにまで行き着くことになりそうだ。
(日本映画監督協会理事)
略歴 やまぎわ・えいぞう 一九三二年生まれ。慶応大学卒。映画監督として「コメットさん」「ウルトラマンタロウ」「俺はあばれはっちゃく」など子ども向けのテレビドラマを作る。八五年発足以来、人権と報道・連絡会の事務局長。
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