
(2000年9月5日付)
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素朴で力強く滋味豊か 停戦協定(1993年)前に反政府勢力兵士達と共にとった夕食 |
広葉樹の茂る山中を歩いていた。ところどころに、赤いペンキで一刷毛(はけ)し た幹がある。ビルマ北部のカチン州と中国・雲南省の国境を示すしるしだという。
一九九三年、私はビルマの反政府武装勢力のひとつカチン独立機構の解放区を訪ね ていた。総司令部のあるパジャウから、いくつかの前線基地を経て、ライザという村 に寄る十日ほどの旅に出たときのことだ。
女である私への気遣いから、護衛兵のなかに若い女性が加えられた。「彼女は料理 がうまいですよ」。女性兵士カートムは将校にそう紹介されると、はにかんで塩まみ れの手で顔をぬぐった。カートムが作っていたのは、セリによく似た植物プランのあ えもの。ショウガとトウガラシを加えて塩でもみ、日本の味噌よりゆるめの大豆の発 酵調味料で味を整えたものだ。
セリのような清々しい香りに味噌のうまみがからみあい、たっぷりきかせたトウガ ラシが食欲を刺激する。八八年の大規模な民主化運動の後、「デモクラシー」のため に志願したというカートムは、小柄で華奢(きゃしゃ)な女性だが、インド国境付近 から中国国境のパジャウまで、ビルマ国軍の眼をかいくぐりながら何カ月も歩いた過 酷な体験があると後から聞いた。
旅も後半にさしかかった頃、足の指のまめがつぶれ、澱(おり)のように疲れがた まっていた。荷物を捨ててしまいたい誘惑にかられながら、かろうじて列の後方にし がみついていると、始終無言で歩いていた後尾の護衛兵が、突然身を伏せて銃を構え た。……襲撃!? 私は凍りついて動けなくなった。身の処し方に困りおろおろした あげく、背中の荷物の下敷きになる格好でその場にはいつくばった。
この辺りは地雷原。兵士たちが歩いた跡(あと)以外に決して踏み出さないよう に、くれぐれも言いわたされていたからである。幸い「敵兵の襲撃」に遭遇すること はなかったが、このときの恐怖のおかげで、驚くほど足取りが軽くなった。荷物の重 さなどもう感じない。火事場の馬鹿力とはこのことだ。
しかし、その日の災難はまだ終わっていなかった。先頭を行く老練の兵士が立ち止 まったその足元を見ると、地面から地雷の信管が飛び出していたのだ。雷が落ちたの か、爆発したらしい。地雷原であることは重々承知していた。しかし目に見えない地 雷は、私にとって無いに等しい。目の前に吹き飛んだ跡があってこそ恐ろしいのだ。 すでに爆発しているのだから危険はない。そう頭で理解はしていても、足が前に出な い。しつこく安全を確かめた末、「ままよ!」と信管をまたいだのだった。
すでに陽は傾き始め、心身ともに重く沈んでいた。暗くなる前に食事をすませなけ ればならない。急きょ、尾根づたいに設営された基地を目指すことになった。小一時 間も歩いたろうか。木の葉でふいた兵舎が点在しているのが見えた。屋根のすきまか ら細く煙が立ちのぼり、ご飯の炊き上がる匂いが漂っている。吸い寄せられるように 近づくと、おき火のそばにいくつもの飯盒が並んでいた。この前線を守る兵士たちの 夕飯だ。
竹製のちゃぶ台に大きな木の葉をしいてビニールシートをかぶせ、その上に次から 次へと飯盒飯をあけていく。湯気の立つ炊きたてのご飯の山が、あっというまにでき た。おかずはプランのあえものとジャプトゥというなめ味噌。これはプランのあえも のにも使う大豆ペーストにショウガやトウガラシを加え、竹筒に入れて棒でつき混ぜ たものだ。ふたつのおかずを湯気のたつご飯の山の頂上にのせると、夕餉のしたくは 整った。
洗面器のようなホウロウびきの大皿を一枚手わたされ、席へどうぞと促される。風 呂場の椅子のような小さな木の腰掛けに腰をおろし、熱々のご飯を手づかみで皿に盛 り、プランとなめ味噌をほんの少し。咀嚼(そしゃく)するさきから、身体全体にし みわたっていく。つかんでは口に運び、咀嚼し、飲み込むという行為にひたすら没頭 した。
私たちの食事が終わると、所在なげにすわっていた若い兵士たちがテーブルを囲 み、ものの三分もたたないうちにご飯の山をたいらげてしまった。見ると食べ盛りの 年頃だ。予定外の客人である私たちのせいで取り分が減り、空腹を満たすことができ なかったのかもしれない。
その夜、尾根を守る兵士たちに案内してもらい、宿泊予定地のリス族の集落にたど り着いた。家主の老婆が、トウモロコシを発酵させて作った粥状の酒を出してねぎら ってくれた。カートムが山からシュロの木の皮をはいできて、つぶつぶの混じった液 体をこす。さらにそれを、何枚も重ねたシダの葉でこしていくと、どろりとしてほの かに甘い白酒のようになった。アルコール度はきわめて低いが、飲むと身体が温まり 元気になるという。兵士たちはそれぞれお椀一杯の酒を飲み干すと、来たばかりの道 を引き返していった。
旅を終え、組織の指導者に今後の展望を尋ねた。すると、「この地の人々が平和に 暮らすために、あなたはどうすべきだと思うか? 我々はもうすでに何十年も闘って きたのだ」と問い返された。カチン独立機構がビルマ軍事政権と停戦協定を結んだの は、それからまもなくのことだった。あれから七年。国内の状況はほとんど変わって いない。中央では民主化運動のシンボル、アウンサン・スーチー氏が地方へ行くこと をはばまれ、抗議のため車中篭城し、九月一日に強制退去させられたというニュース が流れた。
ビルマ北辺に暮らす人々の日常食は、素朴で力強く滋味豊かだ。しかし彼らの今を 思いながら噛むセリの葉は、いつもほろ苦い味がする。
(フリーランス・ライター、フォトグラファー)
略歴 おがわ・しゅうこ 編集者を経て現職。1989年から93年までタイに暮らす。 タイの人々やビルマ国境地帯の取材、撮影をつづけ、グラフ誌などに寄稿している。 著書に『フォトジャーナリスト吉田ルイ子』(理論社)『象使いの少年スッジャイと ディオ』(月刊「たくさんのふしぎ」福音館書店)など。現在は10年間にわたり取 材をつづけてきたビルマの少年兵をテーマに単行本を準備中。