

(1997年4月5日付)

《“正妻”取りへ清水1号》──三月十六日付「読売新聞」スポーツ欄の三段見出し。プロ野球オープン戦で新人捕手が大活躍し、エースから《“新妻”に合格点》をもらって開幕マスクにアピールした、という記事だ。
なぜ正妻、新妻なのか。これは、野球記事で捕手を表現する常套句「女房役」に由来する。捕手=球を受ける人=受け身の存在=女房という類推。だから正捕手なら正妻、新人は新妻。とすると、控え捕手は「愛人」?
何気なく使われたこの比喩は、日本の新聞報道の〈性差別性〉を象徴している。男・夫=中心・主役、女・妻=補助・わき役という男性優位の価値観。新聞は「客観・公正・中立」を標榜するが、実はこんな性差別的発想や表現が、紙面のあちこちに潜んでいる。
しかし読者の側は、よほど意識して読まない限り、記事・表現の差別性に気づかず、次のような見出しも読み過ごしてしまう。
《母は強し/ママさんゴルファー底力/選手・母・妻の三役こなし》
《女心悲し/妻の座狙い、愛人の若妻絞殺/32歳・女教師》
《美人女医殺される/自室、暴行され、全裸で発見/多かった交際の噂》
この「女・妻・母」を「男・夫・父」に置き換えて読んでみよう。パパさんゴルファーが三役をこなしたり、男教師が夫の座を狙って若夫を絞殺したり、美人男医が交際の多さを噂されたり──。女子高生は「それって超ヘン」と笑うだろうし、オジサンは「何だ、この見出しは」と怒りだすかもしれない。
それが「女・妻・母」だと異和感をもたれない。性役割・性差別の固定観念が根強い日本社会で、マス・メディアが長年、それを助長してきた結果だろう。こうしたメディアの性差別表現は、次のように類型化できる。
1「男は仕事、女は家事・育児」の性別役割分業意識に根ざした表現(「三役」など)
2男性=標準・上位、女性=特別・下位という視点の表現(女社長、女医、老女など)
3女性への固定観念、「女らしさ」の強調(受動的、感情的、控えめ、細やか)
4女性を性的対象として「商品化」する視点(事件や写真での容姿、年齢による判断)
表現だけでなく、報道の視点そのものにも性役割・性差別の固定観念は忍び込む。
一九八九年に東京都足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の報道。「朝日新聞」(四月四日付)は、《どうして何の抵抗もせず少年宅までついていったのか》《家族に黙って外泊することも、ままあった》など、加害者の供述に基づいて被害者を「ふしだら」に描いたうえ、その「落ち度」を追及した。
また、「読売新聞」(四月七日付)は、《5少年“寂しかった家庭”/カギっ子→夜遊び→高校中退→非行──》の見出しで、事件の原因を「カギっ子」、つまり母親が職業をもって働いていることに求める記事を掲載した。
朝日記事には、圧倒的な性暴力にさらされた若い女性の恐怖を想像する視点がまったくない。読売記事は、記者の「女は家庭」意識丸出しの働く母親全体に対する脅迫だ。
なぜ、こんな報道を日常的に繰り返してきたのか。それは、記者たちがそうした報道や価値観を性差別と認識していないからだ。
新聞社は、記者の九二%が男性という〈超男性社会〉だ。しかも「夜討ち朝駆け」のハードな勤務、激烈な特ダネ競争、毎日が勝負の〈男らしさの世界〉。
「専業主婦」の支えなしに成り立たない「男らしい」生活は、「男は仕事・女は家庭」の価値観を強固にする。
数年前、スウェーデンのメディア事情を取材した。この国では記者の四割は女性、紙面に影響力を持つデスクや部長職に、意識的に女性を配置している。ある男性記者は「社会の性差別をなくすのは記者の重要な仕事」と語った。男性記者が育児休暇をとり、家事・育児を楽しみつつ、記事に生かしている。
また、アメリカでは、六〇年代から性差別報道をなくす取り組みが進み、新聞社ごとに記事表現のガイドラインが作られてきた。
九五年の北京・世界女性会議は、行動綱領に「女性とメディア」を取り上げ、「表現と意思決定への女性の参加」「ステレオタイプでない女性像」などの目標を掲げた。日本の新聞社は今、これに応えるよう迫られている。性差別表現をなくすガイドライン作り、女性記者・管理職の積極的採用、男性記者・管理職研修(ジェンダー教育)の制度化──。
その実現には、読者の監視と批判が不可欠だ。とりわけ、女性たちの厳しい眼差し、性差別報道を許さない意思表示が、「男メディア」を揺るがし、変革する原動力になる。
(ジャーナリスト)
略歴 やまぐち・まさのり 一九四九年生まれ。大阪市立大学卒。七三年、読売新聞社入社。東京本社地方部、婦人部・生活情報部を経て、現在、情報調査部に勤務。人権と報道・連絡会世話人。共・編著書に『無責任なマスメディア――権力介入の危機と報道被害』『男性改造講座――男たちの明日へ』ほか多数。