

(1997年3月15日付)

『週刊新潮』一九九四年九月一日号が「日蓮正宗『僧侶』を衝突死させた創価学会幹部」というタイトルの事実無根の記事を掲載した件で、「衝突死させた」と書かれた学会員・白山信之氏が新潮社を訴えていた。
昨年一二月二〇日、札幌地裁は、(1)記事と見出し、(2)新聞広告、(3)電車の中吊(なかづ)り広告にまで「名誉毀損(きそん)」の訴えを認め、新潮社に賠償金百十万円の支払いを命ずる、白山氏の実質全面勝訴の判決を下した。
雑誌広告は記事とは異なり、新聞紙面や電車内で、半強制的に人々の眼を奪う。雑誌の発行部数はせいぜい数十万部。本稿では新聞に絞って論じるが、新聞掲載の広告は、一紙でも数百万人の眼に触れる。
広告が名誉毀損を犯していた場合、被害はケタ違いに拡大し、結果として、メディアの人権侵害に、広告を掲載した新聞紙面が大きく加担することになってしまう。判決は、新聞に掲載される雑誌広告のあり方に、重要な警鐘を鳴らしたといえよう。
先般、朝日新聞社が自社の名誉を傷つける記事タイトルの載(の)った『週刊現代』の広告を掲載拒否し、記事とあわせ全国紙向けの新聞広告を訴えの対象として、東京地裁に提訴した。朝日は、広告が名誉毀損を形成することを認識しているわけだ。
これに対し『週刊現代』は、広告を検閲して掲載拒否することは、「表現の自由」を規制する言論封殺(ふうさつ)であり、八百六十二万人の朝日読者の「知る権利」を阻害するものだと主張している。
しかしまず、『週刊現代』は「表現の自由」や国民の「知る権利」を語るような責任ある報道をしてきたのかという疑問がある。同誌はかつて、何ら事実の検証もしないまま、恐喝事件で公判中だった山崎正友の悪質な捏造手記を連載した(八二年八〜九月)。
一昨年は東村山市議の自殺について、やはり邪推(じゃすい)だけを頼りに「夫と娘が激白!『明代は創価学会に殺された』」なる記事を載せ、学会から告訴されている。
「法が保障する『自由』をいうなら、立法の目的を考えなければなりません。表現の自由には『人格形成の実現』と『政治への参加』という二つの側面があります。何を書いてもいいという自由ではない。国民の『知る権利』にこと寄せて、自分の得手勝手を正当化してはいけないのです」(中尾喬一・鳥取大名誉教授〈憲法学〉)
中尾氏は、メディアの活動が国民の側の「表現・言論の自由」の範疇(はんちゅう)におさまっていた十八、十九世紀と違い、現在ではメディアが巨大化し、第四の権力となって受け手の国民と分離していることを指摘する。責任なき表現・言論は国民を害し、その「自由」を確実に蝕(むしば)んでいく。
ゆえに、メディアは言論の自由を守る意味でも、問題のある他メディアの姿勢を積極的に批判し、悪質な広告は掲載拒否するくらいの見識を持たなくてはならないだろう。
「これまで日本ではメディア相互の批判が控えられてきた。戦時下の言論弾圧の記憶が、誤解され惰性的に伝えられているのでしょう」(三木康弘・神戸新聞客員論説委員)
メディア責任制度の先進国スウェーデンの第四代プレス・オンブズマンであるジゲニウス氏は、同国では広告や記事、投稿を問わず「メディアに載ったものはすべて発行・編集者の責任」となると断言する。日本の実態は、きわめて異常だというのだ(『聖教新聞』九六年九月二七日付)。
今回、朝日新聞は自社の掲載基準に照らして、当該(とうがい)号の広告を掲載しなかった。企業のモラルとして(自社であれ第三者であれ)名誉毀損を形成する雑誌広告を掲載しないというのなら、朝日の見識は評価される。
しかし、朝日は高額な掲載料を取って今も多くの雑誌広告を掲載している。自社の名誉を毀損する広告は拒否し、その他の第三者への名誉毀損には、金を受け取って加担するというのでは、御都合主義の誹(そし)りを免れまい。
「アメリカの新聞社は、名誉毀損が(自社にも相手にも)いかに大きな問題かを記者に教えます。日本でも、メディアが人権に敏感になるべきなのです」(三木氏)
人権侵害を繰り返す雑誌はもとより、新聞社もこの機会に、自紙が掲載する雑誌広告の引き起こす人権侵害について、真摯(しんし)な議論をしてほしい。
(ひがし・しんぺい=ジャーナリスト)