

(1997年2月1日付)
各人に忘れ難い日があるように、国や国民にも忘れ難い日というものがある。一九九五年一月十七日もその一つ。六千人を超える死者と一時は三十万人を超えた避難者の姿は、バブル経済の余韻(よいん)に浸っていた私達の魂を揺さぶり、本当の豊かさとは何か、人間を最終的に支えるのは何かと自問させずにはおかなかったからである。
私達がこれらの自問を持ち続けたとすれば、日本のその後はかなり違ったものになったことであろう。が、そうはならなかった。わずか二カ月で頓挫(とんざ)してしまった。従来の路線に戻らせ、人心の荒廃を加速させる契機となったマスコミ主導のオウム・フィーバーが全国を覆(おお)ったからである。
知る権利の担い手という建前と現実との乖離(かいり)は格別目新しいことではなかったが、市民生活には極めて重要であるにもかかわらず、マスコミ報道ではすっぽりと抜け落ちる出来事が相次いだ。代わりに、読者・視聴者の要望という錦(にしき)の御旗の下、何とか評論家や何とかジャーナリストや何とか学者等が登場し、警察官から個人的に得たリーク情報に拠りつつ、犯人探しに明け暮 れる日が続いた。
中世の糺問(きゅうもん)主義裁判が蘇(よみがえ)ったかのようであった。「神」が「神」を裁くこのマスミ法廷では、人が人を裁くのを前提に発明された誤判防止のための憲法や刑事法上の原理原則は通用しない。自白は被疑者・被告人の義務で、自白獲得のための拷問(ごうもん)も賞揚された。冤罪(えんざい)の発生は必然であった。
このような冤罪の構図は、前年の六月に起きた松本サリン事件の報道でもみられた。河野義行さんが犠牲者となった。警察の予断は、マスコミの何重もの脚色で、憲法三一条の適正手続を経ることなく、合理的な疑問の切り捨てによって、有罪確信へと虚構された。マスコミは、権力をチェックするどころか、御用機関になっている。
この経緯を、本ビデオは、河野さん自身の冷静な、しかも、自己を犯人視した読者・視聴者を第二の報道被害者と位置づけ、無罪推定の重要性を誰よりも知るからこそ被告人のことを「麻原さん」と呼ぶ程(ほど)、人権感覚豊かな分析を通して再現する。
河野さんの闘いは始まったが、「第四の権力」からの謝罪獲得は容易ではなかった。間違いを犯すこと以上に問題なのは、間違いを認めないことだ。よく言われることだが、国家公務員上級試験報道職と揶揄(やゆ)される権威的で閉鎖的な、しかも軍隊的な体質は、謝罪の受け入れを、阻(はば)んだからである。河野さんをもってしても謝罪獲得は幸運だったのである。
そこから、本ビデオは、誰もが幸運によらずに利用でき、報道の自由を両立しえる制度として、スウェーデンで生まれ、ヨーロッパ各国に普及した、マスコミ自身が創(つく)った機関によって誤報の被害者を救済するという「メディア責任制度」の導入を推奨(すいしょう)する。もとより、浅野健一同志社大学教授(元共同通信記者)の献身的な研究に拠るものである。スウェーデン、ドイツ、 フランス、イギリスの関係者の取材話も興味深い。
問題は、メディア責任制度と既存の裁判制度との関係であるが、誤報についての第一次的な処理機関の地位は前者に与えられることになろう。とすれば、裁判を受ける権利に影響を及ぼさざるをえないだけに、裁判を受けた場合と同等か、それ以上の利益が誤報被害者に保障される必要があるが、民事裁判と比べた場合の責任制度の長所として、誤報被害者の立証責任の軽減、救済の迅速(じんそく)性、裁判で出せないような救済・防止措置の採用可能性などが上げられよう。
もっとも、それは制度が現実に機能した場合の話であって、それには適任者がオンブズマンおよび報道評議会の構成員として選ばれるか否かが大きいといえよう。しかし、より重要なことは、マスコミの体質改善である。従前の体質を温存したままで責任制度を採用しても、オンブズマン等の努力にもかかわらず、単なる装飾機関か休眠機関に陥る可能性が高いからである。
日本新聞労連はじめマスコミ労働組合の取り組みが注目される所以である。政治、経済、社会の構造改革が問題となっているが、マスコミや労働組合も例外ではない。市民の不信は根深いが、河野さんも指摘するように、絶望からは何も生まれない。市民による市民のための市民のマスコミを作り出すのは何よりも市民自身であることを本ビデオは訴えている。
略歴 うちだ・ひろふみ 一九四六年生まれ。京都大学大学院法学研究科刑事法専攻修士課程修了。神戸学院大学法学部助教授を経て現職。日本刑法学会理事。著書に『刑事再審の研究』(毎日出版文化賞受賞)などがある。
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