

(1998年4月18日付)
センセーショナリズム、無責任、商業主義……米国でも報道側の倫理は厳しい批判にさらされている。本来、「言論の自由」のよって立つ基盤である市民の支持と信頼をいかに回復するのか。メディア倫理研究では全米的に名高い、ミネソタ大学ジャーナリズム・スクール「シーラ・センター(メディア倫理と法の研究所)」名誉所長のドナルド・ギルモア教授に聞いた。(野山智章記者)
――メディアによる人権侵害が最も生じやすいのが犯罪報道の分野だが。
犯罪報道に関する人権侵害について、米国市民が抗議活動をしたという話はまず聞かない。私は時々、米国市民は「推定無罪」の原則を受け入れていないと感じることがある。市民の間には、警察官は無実の人を逮捕しないという憶測(おくそく)があるが、それは間違いだ。米国以外の英語圏のほうがこうした問題に敏感であり、裁判も辞さない。
以前、犯罪報道にかかわる問題を論じるために結成された「Free Press Fair Trial Council」という団体の結成にかかわったことがある。司法官、編集者、弁護士、検察当局の代表者などとの長期にわたる議論の末、我々は「すべき事」「すべきでない事」のリストを作成した。 裁判官とミネソタ新聞協会の前理事長も、この団体のメンバーに含まれており、新聞がこうしたリストの条項に反するような報道をした場合には評議会がその新聞の編集者に話をしにいくという、いわば消防士的な役割を務めていた。 だが、結果的にはこうした条項に違反するケースがあまりにも多すぎて、評議会では捌(さば)き切れなくなってしまった。同じことが他の州でも起こり、最終的には、この試み自体を断念することになった。現在ではこのような評議会は、米国にはどのような形であれ存在しない。――メディアは、権力を監視し、市民の「知る権利」に奉仕する使命があるにもかかわらず、その役割を果たしていないという批判があるが。
(政治的に)左寄りの人々は米国のメディアは権力と一体化していると批判する。この人々のメディア批判はあながち根拠に欠けるというわけではない。比較的リベラルなニュース番組でも、同じ人物が繰り返し登場しているという非難がある。これらの人々は中道もしくは右寄りを代表してインタビューをうけることが多く、急進的な左翼がインタビューをうけることはめったにない。
メディアの横並び志向も、批判そのものはもっともだと思う。記者たちが同じ場所に集まって、同じ情報源に同じ質問をする傾向は確かにある。これはニュースの共通性、何がニュースであるかという定義に関係している。ニュースの情報源の多くは政府筋である。また、多くの新聞が同じ情報源を使って書いている。この傾向は、メディアの寡占(かせん)が進むにつれ、さらに強まるであろう。――政治報道、選挙報道における偏向の問題をどう考えたらよいか。
偏向報道の例を挙げると、かつて大統領候補が『Fact』という雑誌を相手どって訴訟を起こしたケースがあった。(保守的な政治家である)ゴールドウオーターが大統領選に出馬した際、同誌の編集者ギーンズバーグは七百人の精神科医に「ゴールドウオーターは精神的に病(や)んでいると思うか」などという質問項目の並んだアンケートを送付した。
そして、返送されてきたアンケートの中からゴールドウオーターにとって致命的な質問だけを拾い出して使用した。これは意図的に偏向のかけられた情報だ。ギーンズバーグは、これを同誌で利用し、ゴールドウオーターはギーンズバーグを名誉毀損(きそん)で訴えて勝訴した。これくらいのレベルの政治家になると名誉毀損で訴え勝訴するのはほとんど不可能に近い。しかし、意図的な偏向報道であればそれが可能なことをゴールドウオーターは証明した。――新聞がビジュアル(見た目)を追求し、“テレビ化”している現状についてどう考えるか。
ただただ生存競争に必死だと感じることがある。若い世代はテレビに育てられ、テレビのカラー映像、単純明快さ、大枠では意味をなさない情報の断片、集中力を必要とせず視聴者側からのいかなる努力も要さないテレビの形式に慣れている。商業的な成功の面からいえば称賛されるべきだが、私のような人間は旅行先でしか必要とせず、間違っても自宅では読まない『USAトゥディ』(ガネット社)のような新聞は、こうした傾向の落とし子だ。
私は称賛はしないが、ガネット社がこれらの新聞を運営し続けられるのであれば、我々は彼らに負うところがある。なぜなら、私たちの子供の世代は新聞を読まないし、新聞が読まれないのであれば、広告主は新聞を媒体として利用しなくなり、新聞は死に絶えてしまうからだ。九七年九月、『ニューヨーク・タイムズ』紙も、カラーを紙面に利用し始めた。――経営上の配慮が、新聞の内容にまで影響を及ぼした訳だが。
米国を代表する高級紙であるタイムズ紙の経常利益は三%前後と非常に低く、経済的に成功している新聞とはいえない。それに対して、(『USAトゥディ』はじめ)ガネット社が発行する新聞の利益率は二一%にのぼる。
米国のジャーナリズムに関する、そして、おそらく世界中の民主主義国でのジャーナリズムに関する究極的な疑問は、経済的側面となろうと私が思うのは、こうした事実に基づいている。企業は見返りとして何を期待しているのか、こうした問題は今後、影を落とすと思う。 米国で歴史的に最も大きな成功を収めた新聞はサルツバーガー家(『ニューヨーク・タイムズ』社主)など家族経営のもので、オーナーは社会に対して強い責任感を抱いていた。顔のない巨大企業である新聞社、特に株が一般に公開されている大会社は、読者よりも株主を気にかける。投資に対しての見返りを期待する株主が台頭してくると、ジャーナリズムというシステムは売り物へと身をやつしてしまう。 これは、想像上の最悪のシナリオに過ぎないかもしれず、今後メディア内での競争が大企業同士の戦いになっても、メディアの多様性が残る可能性は大いにある。しかし、究極的には市場主義的、資本主義的社会では大企業はさらに巨大化するし、小企業は消滅してしまう。 批評家のA・J・リーブリングは、いつの日かワシントンDCかニューヨークに拠点を置く一つの巨大な企業がすべてのコミュニケーション・システムを独占するであろうと予見した。一握りの人たちがすべてを所有する、資本主義の不可避的な末路を予告したもので示唆的だ。シーラ・センターとは/報道評議会(ニュース・カウンシル)とも深いつながり
ミネソタ大学のジャーナリズム・スクールに設置されているシーラ・センターは、地元紙『ミネアポリス・スター・トリビューン』の発行者オットー・シーラ(Otto Silha)氏の貢献によって1984年に設立されたメディア倫理と法の研究所である。ミネソタ報道評議会(ニュース・カウンシル)とも深いつながりがあり、同評議会に関する多くの資料はここで手に入る。
米国中北部に位置するミネソタ州――。ミシシッピ川の中流部にある州都セントポール市と対岸のミネアポリス市は“ツイン・シティー(双子の街)”と呼ばれ、文化都市として名高い。その中核をなすのが一八五一年創立のミネソタ大学である。同大学は『ニューヨーク・タイムズ』紙の名記者、故H・ソールズベリーの出身校でもある。
メディア倫理は、業界内部にとどまらず、社会の全体に大きな影響を及ぼす問題である。その意味で、伝統あるアカデミズムが骨太の研究を行っていることは注目に値する。ミネソタ大学シーラ・センターは、今回の取材でも是非、訪問したい機関の一つであった。 しかも同大学は、メディア責任制度の成功例であるミネソタ報道評議会の活動とも、その出発時点(七一年)から深いかかわりを持っている。ギルモア教授は、一貫してミネソタ報道評議会を支援してきた人物である。メディアの問題点や諸矛盾に目を配りながらも、学問の視座からあるべき姿を提示する氏の存在は、米国報道界の懐(ふところ)の深さを象徴している。略歴 Donald Gillmor ミネソタ大学で修士号、および博士号を取得後、1965年から勤務。その間、85年ドイツのミュンヘン大学、94年スウェーデンのルンド大学に客員教授として各1年滞在。90年にはフリーダム・フォーラム財団の上級研究員としてコロンビア大学法律大学院で教えた。著書に『権力――パブリシティと自由法の侵害』、共著に『マスコミュニケーション法』『メディアの自由と責任』など。